たいいくのひ

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まだまだ先のありそうな巻物を左手で少しずつ繰り出して、初めて読む紙面に浮き浮きと目を通していく。
読み終えた部分は縁側の、羽柴当麻が座り込んでいる冷たい床の上に、無造作に折り重なっていく。
一時は幻魔将と名乗った黒田が、煩悩京の書物蔵に納められた中から見つけた記録が、当麻の探していたものではないかと連絡をくれ、馳せ参じたのだ。

当麻や黒田の計算を元に、迦遊羅が煩悩京を創り出している力を調整して、ここ煩悩京の時の流れと人間界のそれとは、ほぼ同じくらいになっている。
このまま徐々に、二つの世界は融合していく算段になっているが、それには計算と調整を重ねながら、まだ十年以上の歳月を要する見通しだ。

黒田の連絡を受けて居ても立ってもいられず、神奈川県某所にある当麻のアパートの、クローゼットを経由してこの煩悩京の主殿へとやってきたのが、ここに暮らすの面々の遅い朝餉時。
勧められるまま図々しくご相伴に預かり、それからは茶の誘いにも、軽い昼餉への招待にもろくな返答をせず、色とりどりの花の咲く庭を見下ろす縁側で、欄干に寄りかかって読むことに没頭していた。

面白くないのは九十郎だ。
当麻は、執務の間に時折自分の元に寄っては何やら声をかける黒田とは二言三言、言葉を交わす。
そのくせ、九十郎が話しかけても返すのは「ああ」とか「うん」とかいう生返事だけ。

構うものかと九十郎は、一度は外回りに出て、いつもの見回り順路を駆けたり歩いたりしてみた。
しかしやはり当麻が気になって仕事にはならず、仏頂面で来た道をまた屋敷へと戻った。

「おい」

先程と寸分違わぬ姿勢で座り込む当麻の傍に立ち、九十郎は腹の底から一番低い声を出した。

「ん？」

ようやく当麻が九十郎に顔を向けた。
その上目遣いを不覚にも可愛らしく感じてしまい、九十郎は渋面を取り繕って、しばし黙る。

「何だよぅ」

一瞬だけ軽く眉を顰め、当麻の目は書物へと戻りかける。
九十郎は慌てて言葉を紡いだ。

「いつまで読んでいるつもりだ」

「いつまで……」

何とか当麻の意識を自分に繋ぎ止めることに成功した九十郎が見下ろす中、当麻は何巻かの巻物が乱雑に放り出される床を見回した。

「これ全部……？」

（て、ワケにはいかないよネ？）

当麻は苦笑いを浮かべる。
それから、

「これだけ！ ほら、後これだけだから、な？」

と、前言を訂正し、九十郎に巻物の巻かれている未読部分が、残り少ないことを示して見せた。

当麻が返事をし、しかも待ちわびている自分にいくらか譲歩したことで、九十郎は何とか納得したようだ。

「早く読んでしまえ」

抑えた声でそう言って、当麻の隣にくっついて腰を下ろし、胡座をかいて目を閉じた。

続く筆文字に目を配りながら、伝わってくる九十郎の体温に、落ち着かないのは当麻の方になる。

そう言えばかれこれ一ヶ月ぶりになるのか。
九十郎サン、溜まってるのかな。
俺だって、こんなことばかりしていたいわけでもないんだが。

気がつくと書物の内容は、ちっとも頭に入っていない。
こんなことなら、すぐに相手をしてやった方がマシか。

当麻がそう思い至った瞬間。

「…………！！」



驚きの声を上げる間もなく、当麻の唇は九十郎のそれに塞がれていて。
まるで心を読まれているかのような、この自称山犬のタイミングのよさに、当麻は思考を放棄する。

目を閉じればもう、興味深い書物も咲き誇る花々も、当麻の目には入らない。
逞しい腕でかき抱かれ、無遠慮に侵入してくる九十郎の熱に、当麻は身体の芯が溶けだしていくのを感じる。

「んん……っ」

口付けだけで、こんなにも、心地いい。

その時。

「取り込み中のところ、恐れ入るが」

突如降りかかる冷ややかな声に、九十郎は振り向いて一つ、大きく舌打ちする。

「迦遊羅が菓子を持っていけと言うのでな」

毒魔将を冠していた山之内が、いつものごとく大して声音も表情も変えないまま、陶器の菓子鉢を二人のすぐ傍らに置く。

当麻は夢見心地から一気に現実に戻され、腰が立たず、九十郎の腕の中で、ただこれ以上ないほど赤面して、言葉を紡ぎ出すこともできない。

「天空殿の読書の邪魔にならぬようにと迦遊羅に釘を刺されたが、いやはや飛んだ失礼をした」

そこでようやくニヤリとして、山之内は二人に背中を向ける。
悠々と立ち去る山之内を、二人はそのままの格好で見送った。

煩悩京のぼんやりとした二つの太陽が、揃って傾きかけている。

その後はそのまま倒れ伏す天空殿と、その隣でのんびりと菓子をつまむ九十郎の姿があったとか、なかったとか。



おわり