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【106】日曜の午後

一昨年前の武装演舞で参加した合同本『とうまのおでこ本』収録のお話です。
緑青です。


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まだ小学生だった俺一人を部屋において、母が家を出ていってしまうなんてことは、いくらぶっ飛んだ俺の両親にしてもちょっと酷すぎるだろう。
だからきっと父さんも、そのときその場のどこかにいたのだと思う。
そこのところの記憶は、なぜかあやふやだ。

母さんが家を出た日。

荷物はもう前の日に、引越し屋がすべて運んでいった。
他には何も変わらないのに、扉が開け放たれた母さんの小さな部屋だけ、ガランと何もなくなっていた。
リビングから見た情景。

母さんが気に入っていた東側の大きな窓から、朝日が差し込んでいる。
子どもの目の高さで見たそのぽかんとした景色は、今でも妙に鮮明に記憶に残っている。

「当麻くん」

俺にそう呼びかけると、母さんはスーツのポケットから青い布切れをとり出した。
母さんの手がそっとそれを広げると、それは頭に巻くように輪っかに仕立てられたバンダナだった。

母さんは俺の頭にそれをかぶらせる。
ふわりと額がおおわれた。
母さんのポケットに入っていた青いバンダナは、母さんと同じあたたかさだった。
何年ぶりだったろう。
前の晩、俺のベッドで一緒に眠ってくれた、母さんの温度。

バンダナと額の間に挟まった俺の前髪を、母さんの手がそっとすくい上げて、バンダナの上に下ろした。
そして、俺の頭をくしゃくしゃとなでた。
思えばあの頃はまだ俺よりも、小柄な母さんの方が少し背が高かった。

「思った通り。似合うなぁ」

母さんの声は、やけにはしゃいでいた。

「当麻くんの青い髪にピッタリだね」

俺は驚いて聞き返した。

「青い髪?」

「そうだよ」

おそらく目を丸くして見上げていたのだろう息子の顔を、母さんは覗き込んで目を細めた。

「私が当麻くんを産んだときね……」

母さんはバンダナに両手の親指を差し入れた。
そしてゆっくりとその指で、俺の額をなでながら話し始めた。



「おふくろがさ。俺の髪が、青く見えることがあるって言うんだ」

日曜日の昼下がり。
二人で暮らす部屋のリビングで、新聞を広げている私に背中でもたれていた当麻が、不意にそんなことを言った。

「え?」

私は自分の右肩にのっている当麻の頭の、ずっと変わらず短めにカットされた髪に目をやる。
生まれながらに色素の薄い私とは違って、当麻の髪の毛は日本人らしく普通に、黒い。

妖邪との戦いのために集まった東京で、初めて出会った居丈高な少年は、アンダーギアの差し色と同じ、目の覚めるような鮮やかな青い髪と、深く澄んだ青い目をしていた。

思えばそのときから、私はその青に魅了されてしまっていたのかもしれない。

「そういえば……」

私は左手を伸ばして、黒い当麻の髪にくしゃりと指を入れる。

「青かった」

「え?」

今度は当麻が驚いた声をあげ、頭をもぞりと動かした。
意識がこちらを向いたのがわかる。

「青かったのだ。お前の髪も瞳も。妖邪と戦っている間、確かに」

私は広げていた新聞をたたみ、当麻がいる方とは反対側におく。

静かなリビングに、ぱさりと紙の音が響く。
去年当麻が拾ってきた亀の、水槽のポンプの水音がしている。

「青かったのか……」

当麻は前髪の長く伸びたところを自分でつまみあげ、ながめているようだった。

「俺を産んだとき、おふくろは俺のこと、青い髪がきれいな、かわいい赤ん坊だと思ったんだと。普通、気味が悪いんじゃないのかなぁ。生まれた子の髪が青かったりしたら」

当麻の声は信じられんと言わんばかりだが、それでもどこか嬉しそうだ。

「お前にも見えたんなら……。そうだ。そのとき、お前はどう思ったんだ?俺の青い髪の毛」

首を横に傾げて、自分の頭の重みを当麻の頭にのせる。

「好きだ、と、思った」

私はひとことそう言って、もう一度、くしゃくしゃと当麻の髪をかき混ぜた。

「はぁ?」

当麻は大袈裟にあきれた声をあげ、そのまま倒れて私のひざの上に頭をのせた。

やっと顔が見えたが、照れているのだろう。
愛しい黒い瞳は、あちらを向いている。

「俺、あのとき、ずっとバンダナつけてたの、覚えているか?」

「ああ」

覚えていないはずがない。
起きていても寝ていても、戦っていても休んでいても、片時も外されることのなかった青いバンダナ。

「髪が青くて頭が良すぎる俺を守るお守りだって言ってさ。家を出てったおふくろが、最後にくれたんだ、あれ」

「ほう」

水槽の中の亀がゴトリと音を立てた。
首を伸ばして、こちらを見ている。

「あれがないと、何もかもが駄目になるような気がして、怖かった。あのバンダナ、おそらく俺にとって、おふくろの代わりだったんだ。笑っちゃうだろう」

そう言って当麻は自分で少し笑ったが、私は笑わなかった。

あのバンダナが当麻を守ってくれた。
あのバンダナがあったおかげで、当麻は今ここにいるのだという感謝で胸が熱くなる。
そして今、当麻の額にそのバンダナは、ない。

青いバンダナから卒業できた、その理由のほんの一部にでも、私がいると自惚れてもいいだろうか。

私は、バンダナのない当麻の額にかかる前髪をそっとなで上げた。
不揃いな前髪でいつもは隠されている、広い額があらわになる。

当麻は軽く眉をよせ、ようやく私と視線を合わせた。

「俺のおでこに気安くさわるんじゃない」

「何だ。弱点か」

笑いながらもう一度なで上げてやると、当麻は本当に首をすくめて、くすぐったそうに目を閉じた。
さっきはさらりとしていた額が、しっとりとあたたかだった。
亀がぶくぶくと鼻から泡を出して、首をひっこめ、あちらを向いた。



いつも青く見えていたわけではないらしい。
でも、それから幾度となく俺の髪は、母さんの目には青く映っていたという。
そんな不思議なことを、どうしてもっと早く教えてくれなかったのかと聞くと、

「なんだかねぇ。言っちゃうともったいない気がしたんだ」

なんて、よくわからないことを言って、母さんはまた笑っていた。

母さんが家からいなくなった翌年の、中一の夏休み。
俺が大阪のあちこちを駆け回って探し当てた天空の鎧が青かったとき、俺はその鎧が自分の宿命なのだということを、瞬時に悟ることができた。

母さんにだけ見えていた、俺の青い髪。

それが、征士にも見えていたなんて。

「他の奴らにも、そう見えていたのかな」

何となく気になって、聞いてみる。

「さあな。だが一度もそんな話は聞いたことがない」

征士のいつもの、落ち着いた優しい声が返ってくる。

俺の髪が青く見えたのが、征士だけならいい。

そっと額をなでる征士の指先をくすぐったく、あたたかく感じながら、俺はそんなことを考えていた。



おわり
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