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【101】砂の城

閲覧注意。
当麻が既婚者です。
征当です。

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「でさぁ、理乃が泣くんだよ。ママがいい〜って。あん時は参ったな」

いつもそれほど飲まない当麻のジョッキの空くペースが速かったのは、結婚して三年になる奥方と二歳になる娘が、二人だけで奥方の実家に里帰りしているという、ある種の解放感からなのだろう。

研究仲間でもある当麻と奥方の夫婦仲はすこぶる良く、そして当麻がこんなにも子煩悩な父親になるとは、まったく予想していなかった。

なのに、こうして私を飲みに誘う。

当然だ。
私たちは中学の頃から、そう、数えればもうかれこれ十五年来にもなる友人で、共に経験した者以外とは決してわかり合うことのできない、数奇な試練をくぐり抜けてきた仲だ。
そんな腐れ縁の仲間五人組の中で、私と当麻の二人だけが都内の、お互い大して遠くもないところに住んでいるとなれば、こうして時折二人だけで飲むということは、取り立てて不自然なことではないのだ。

しこたま酔って赤い顔をして、妻子の不在に羽根を伸ばすのだなどと言いながら、結局当麻の口から出てくる話題といえば奥方と可愛い一人娘のこと。
愚痴る体で惚気ている当麻の横顔に私は、なぜか相槌をうつことを忘れてしまっていた。
そのような話は今までずっと、何食わぬ友人面で聴いてやることができていたのに。

そんな私にふと気づいた当麻が、よく回っていた口を閉じてこちらを見る。
一瞬。
ほんの一瞬、それは十五年前に戻ったかのように見えた。
深い宇宙を思わせる、当麻の瞳。
その目に吸い込まれるように、私は当麻に顔を寄せると、驚いて少し開いたその唇に口づけていた。



薄暗い店内の、更に隅の暗がりの席。
まばらにいる他の客たちから、私たちの様子は見られなかったはずだ。
しばらく触れ合わせた唇を離してみると、当麻はただ大きく目を見開いて、呆然と私を見ていた。

「……悪かった」

私はそう言い残すと、財布から紙幣を一枚出してテーブルに置き、コートを掴んで店を後にした。







何が起こったのか、状況を整理するのに数秒を要した。

店を出ていく征士の背中を阿呆みたいに見送っていた俺は、急いで立ち上がった。
椅子が大きな音を立ててひっくり返りそうになり、周囲の視線が集まって慌てる。
ジーンズの尻のポケットから財布を引っ張り出しながらカウンターの奥にいるマスターに声をかけ、俺は勘定をすませて店を飛び出した。

地上へ出れば、車道の向こうに征士の淡い色の癖っ毛とコートの後ろ姿が見える。

『追ってはいけない』

どこかで警鐘が鳴っている。
追いついて、一体何をどうしようというのか。

しかし自分では制御できない何かに突き動かされ、俺は車通りを縫うようにヘッドライトの川を渡った。

俺を轢きそこなった車のクラクションが派手に響く。
征士は振り返らない。
車道と歩道を隔てる低いフェンスと生垣とを一息に跳び越えると、歩いているカップルの女が俺のことを見ていた。

「待てよ」

息を切らせながらやっと追いついて、何を言いたいのかもわからないまま、後ろから征士の腕を掴んだ。

振り返った征士は困惑の表情をしていて、整った口元からは再びこんな言葉が落ちた。

「すまなかった」

瞬時に怒りが湧き上がった。

「どうして!」

さっきのカップルが、俺たちを遠慮なしにジロジロと見ながら追い越していく。
それでも俺は荒げた声を抑えることができなかった。

「どうして、あんなことをした。俺は……」

「だから。悪かったと言っている。忘れてくれ」

征士はふいと俺から視線を外した。

「ふざけるなよ!」

俺は怒りに任せて征士の胸倉を掴む。
その端正な顔を間近から睨みつけ、拳を振り上げた。







殴られるのかと覚悟をして目を瞑ったが、予想したような衝撃はやってこない。
恐る恐る目を開けると、拳はとうに下げられていて、怒りが冷めやらない当麻の顔だけがあった。

「もう一度聞く。どうしてあんな真似をした」

恐ろしく低い声で、当麻が言った。

「聞いてどうする」

当麻の怒りが私の言葉によって増幅されていくのが腹立たしくもあるが、おかしなことにどこか少し愉快でもあった。

「からかっているのか!」

「そうではない」

喧嘩かと勘違いしたらしい中年女性が、立ち止まってこちらを見ている。
通報でもされたら厄介だ。
私は当麻の手首を掴むと、とにかくその場を離れようと歩き出した。

「おい!放せよ!この馬鹿力!」

掴んだ当麻の手首は熱く、私を振りほどくこともできずについてくる。
すぐ背後から聞こえる足音は覚束ない。
当麻はやはりひどく酔っているのだ。

小さな酒場が続く通りを行くと、辺りは次第に薄暗く、さらにぽつりぽつりと小さな看板が控えめに並ぶ界隈へと変わる。

空室あり。

その中の一軒に、私は当麻を引き入れた。

「宿泊だ」

顔の見えない小さな窓に紙幣を突き出してルームキーを受け取る。
すぐ脇にある古びたエレベーターに乗り込んだ。

「どう……!」

狭いエレベーターの中はやけに音が響いたので、当麻は言葉を一旦止めてもう一度声を落として言った。

「どういうつもりだ」

「こんなところまで来て、どういうつもりもこういうつもりもない」

すぐ目の前で私を睨む、当麻の頭を搔き抱き、もがく当麻の口を私の口で塞いだ。

大きな動作音を立てて振動とともにエレベーターが止まり、扉が開く。
私はわざとゆっくりと当麻を解放した。





開いたエレベーターの扉の向こうには中年の男と若い女の、いかにも不倫という雰囲気の二人が、私たちを好奇の目で見ながら入れ替わりに乗り込んだ。
私は正面の表示と手の中のルームキーの番号とを見比べ、薄暗く狭い通路を左へと曲がった。
当麻は黙ってついてきた。

狭い室内は、ほぼベッドで埋め尽くされている。
あることはある、というくらいのデスクに小さなテレビ。
その横には安っぽいプラスチックの扉がついた物入れがあり、避妊具の他に化粧瓶の類が何本か入っているのが見えた。

当麻はむっつりと押し黙ったまま、慌てて羽織って来たのだろう、合わせをひとつも留めないままのコートを脱ぎ、そのままセーターも脱いだ。
そして、ジーンズのボタンに手をかける。

「おい」

呼びかけると、当麻はこちらを一瞥し、

「頭、洗ってくる」

と言って、残りの身につけているもの一切を脱ぎ、部屋の隅に置かれた椅子の上に全部放る。
そして振り返りもせず、バスルームへ入って行った。







狭いバスタブで壁に肘をぶつけながら、熱いシャワーを頭からかぶった。

今、俺は征士といかがわしいホテルにいる。
ついさっきまで俺たちは、単なる腐れ縁の友達同士だった。
それなのに。

シャンプーのボトルの頭を乱暴に何度か押し下げると、冷たいヌメヌメとした液体が掌に収まりきれずに指の間を落ちて行く。
唇に、さっきの征士の感触が蘇る。
それを振り払おうと、やたらと頭を下げ掻きむしった。
それでも事実は消えない。

そして俺は何だ。

征士の後を追いかけた。
途中でで帰ることもできたのに、のこのことこんなところまでついてきてしまった。





異世界まで及ぶ、わけのわからない戦いに命をかけたあの日々。
あの頃から俺は征士のことが好きだった。
それは分かり合える親友としての「好き」に留まらず、確実に「抱き合いたい」という衝動の伴うそれだった。

吊り橋効果ここに極まれり、とか、顔がよければ何でもいいのか、とか、自分がどうかしてるに違いないと、必死にその欲を振り払おうとした。
でも、やたら綺麗で、大真面目で、それでいてどこか妙なおかしみのある伊達征士という男から、俺はとうとう目を離すことはできなかったのだ。

「好きだ」

気がついたら、俺は自室のベッドに横になっている征士の上に覆いかぶさるようにして、そんなことを言っていた。

「何だと?」

何を言っているのかよくわからないといった風で、征士は眉間にしわを寄せて俺を睨んだ。

「好きなんだ、征士」

どんな返事も期待してはいなかった。
先のことなんて何も考えてはいなかった。
もう何一つも、考えたくはなかったのだ。

「そんなことを言われても、どうしていいのかわからん」

征士は表情を変えないまま、近づけた俺の顔を見据えて言った。

「……だろうな」

胸と喉の間にグツグツと煮えたぎっていた何かが急速に冷えていった。

「悪かった。忘れてくれ」

「ああ」

征士はそのまま、何ごともなかったかのように、目を閉じた。

俺は部屋を出た。
冷たくてカサカサに乾いた塊が喉から無理矢理に飛び出そうとして、酷い吐き気がした。





温度の安定しないシャワーは水のようになり、突然に降り注ぐ雷雨のごとくに俺の身体を打つ。

妻は征士の代わりではない。
愛している。
娘も。

二人の顔が浮かぶ。

シャワーのコックを捻って流れを止める。
バスタオルを手に取り、乱暴に頭を拭きながら、バスルームの扉を開けた。





ベッドに腰掛けて、ずっとシャワーの音を聞いていた。

誰も立ち入らぬよう、細い細い糸を周囲に張り巡らせ、美しく作り上げた砂の城が崩れていくのが見える。
それだけが唯一、十五年もかけて、二人で築き上げてきたものであったのに。
がんじがらめの糸を切ったのは誰だ。
臆病に積み上げた砂に足を掛けたのは誰だ。
それとも、ただ自然の摂理として潮が満ちただけなのか。

「好きなんだ、征士」

当麻のあの声は、いくら忘れようとしても、忘れることなどできなかった。
あの時。
当麻の言葉に、自分の熱情に、素直に応えていたならば、違う現在がここにはあったのだろうか。

否。

シャワーの音が止んだ。
薄っぺらな扉の向こうから出てきた当麻の瞳には、さっきまでとは真逆の静かな決意が宿されていた。
しかし私にはわかる。
今なら、当麻の決意を軽々と覆すことができる。





「俺が……あれから、どんな思いで、お前のことを諦めたと思ってるんだ……」

何かが始まってしまったような気もするし、何もかもが終わってしまったような気もする。

苦痛とも快楽とも、後悔とも諦めとも捉えられない俺の呻き声が、まるで自分のものではないように、遠くから聞こえる。
俺の奥の奥まで深く入り込んだ征士の身体が、俺の言葉を途切れ途切れにさせる。

「それを、こんな……っ」

何もかも、まるでデタラメだ。
そう思うのに。
まったく裏腹に、身体も心もこんなにも満たされている。

「好きだ、当麻」

その言葉に涙がこぼれ落ちる。



当麻の肩の向こう。
脱ぎ捨てられた当麻のダッフルコートの上に、ハンガーに掛けたはずの私のトレンチが、落ちて被さっているのが目に入る。

何も始まってなんかいない。
何も終わりはしない。
今までだって、ずっとそうだったのだ。
それは、そこにあった。
ただ、見ないようにしてきただけなのだ。

「当麻、恐れることはない」


これからもきっと、何一つ変わらないのだ。









おわり
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