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【098-02】家庭教師 後

後半です。
R18。


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***********

高校二年が終わった春休みは、ニューヨークに住む母のところに転がり込んだ。
面白そうなところに片っ端から首を突っ込んで回っていたら、ひょんなことから素粒子物理の世界的権威と知り合いになり、彼が教えている大学に遊びに行かせてもらうことになった。

ニューヨークから遠く離れたカリフォルニアの大学で見せてもらった彼の研究は、まさに一番興味をそそられていた世界の最先端で、俺はすっかり虜になった。
アメリカの飛び級入学の試験をさっさと受けて、秋にはその大学に入学した。

大学生活は順調かつ刺激的で、俺は他にこなさなくてはならない課題もそこそこに、教授にくっついて研究に没頭した。

何十人かの一年生が一緒に入学したが、今年は飛び級で十七歳なのは俺一人だった。
そして多くの学生が望んでも入ることのできない研究室に一年生で入り浸っている俺は、悪目立ちしていたんだろうと思う。
よく知りもしない輩から急に心ない言葉を浴びせられるような嫌がらせはたまにあった。
しかしそんなやっかみの類には昔から慣れていて、ため息は出るが、気に病むほどのことではなかった。

悩みの種はもっと他にあった。
寮は二人部屋。
俺のルームメイトは一緒に入学した東海岸から来た男で、無口でよく机に向かっている真面目な印象の奴だった。

寮に入って半月もした頃からだ。
着替えている最中に視線を感じ、そいつの方を見ると目を逸らされたり、夜中にふと近くにそいつの気配を感じて、モゾと動いて見せると気配が急に遠のいたり。

(こいつ、俺に妙な気があるのか)

決定的なことは何もないまま状況証拠だけが積み上がり、疑念は日に日に確信へと変わった。

そして同じ頃に、それは始まった。件の教授に、俺は有り体に言ってしまえば強姦されたのだ。
やめてくれと懇願する俺におっ勃てたものを無理やりねじりこみながら教授は言った。

「お前が悪いんだ、トウマ。トウマが私にこんなことをさせる」

そして、その言葉に俺は納得がいったのだ。
俺がヤられるのは、それが初めてではなかったから。

伸、秀、征士の三人が妖邪界に囚われ、それを救い出すために単身乗り込んだあの時。
俺は妖邪の慰みものにされた。
とてつもなく長い時間に思われた責め苦。
思いもよらぬ己の欲望を引きずり出されて蹂躙された、あれは最低に惨めで恐ろしいできごとだった。
あの戦いで起きた他のどんなことよりも、俺に恐怖を植え付けた。


「トウマ。私の悪魔。お前が悪いんだ」

教授の言葉で、その忌まわしい記憶が一気に蘇った。

そう、俺が悪い。
俺はあの時から、どこかおかしいのだ。
同室の男をおかしくしているのも、きっと俺なんだ。

身体が痺れたように言うことをきかなかった。
俺は教授に強く抵抗することもできず、最後はなされるがままになった。

それからずっと、教授との関係は続いている。
俺の好奇心を満たすには、教授の力と大学にいられることが必要だった。
一度地に堕ちているのだ。
こんな身体を自由にさせるだけで、波風立てずに研究ができるならそれでいい。
無理に身体を開かれて傷つくより、合意の振りをして優しくされた方が苦痛が少ないのだ。
少なくとも、身体の面では。

疲れて部屋に戻り、落ち着かないままベッドに入る。
現実と夢とのぼんやりとした境に思い描くのは、かつての戦友で同じ部屋で暮らした征士のことだった。

人間でないものたちからの、そして教授からの屈辱的な行為。
しかし相手が征士だったら。
征士が俺を求めるのなら。
男同士の間違った身体の関係を、他の誰でもなく、征士と持つ妄想が俺の精神の救いだった。
あの戦いの最中からずっと、不安である時ほど俺の頭の中を支配したのは、そんな絶望的な欲望だった。

同じ部屋に寝起きしていたあの頃、征士もまた今の俺と同じように、同室の俺の劣情を察して密かに困惑していたかもしれない。
征士に抱かれたい。
大切に思われたい。
愛されたい。
そんな想いを隠しきれている自信はなかった。

だから。
仙台と大阪に別れてからは、征士から電話があっても、俺からは決して返さないようにしていた。
会うのも、仲間が皆集まるときだけ。
どんなに声が聞きたいと、会いたいと思っても、俺は自分にそれを禁じた。
一度だけ、一目姿を見ようと剣道の大会に潜り込んだことがあったが、別に一人で来ていた遼に見つかってしまった。



俺には征士が必要で、征士がいなくては生きていけない。
しかし征士にとって、俺はただ腐れ縁の友達だ。
離れていれば、研究に没頭すれば、苦しいだけのそんな気持ちもいつか忘れてしまえるかもしれない。
それが、海外に出た理由のひとつでもあったのだ。

それなのに。

何をどう片付ければ、俺は苦しみから解放されるのか。
征士に会いたい。
声が聞きたい。



「セイジって、誰だ?トウマ」

他に誰もいない鍵のかかった研究室で、教授に後ろから突き上げられながら、耳元で囁かれた。

「何……だって?」

「言ったよ、今。セイジって。日本人の名前だろう。一体誰なんだ?」



一度もかけたことがないのに覚えているのは、何度もかけようとしたことがあるからだ。
プッシュホンの数字をゆっくりと一つずつ押し込んでいく。

友達に電話をするのに、緊張する必要なんてない。
そう自分に言い聞かせるほど、額に汗が滲んでくる。

一度だけ。
一度だけ、声を聞くだけ。
声を聞くことさえできれば、きっと、まだ俺はやっていける。

最後の数字を押すと、数秒の沈黙。
そして、日本に繋がった音。心音が早くなる。



電話に出たのは征士のお姉さんだった。
俺が名乗ると、以前遼たちと一緒に遊びに行ったことを思い出してくれたようだった。
保留のモーツァルトを聞きながら、俺は征士を待った。

『もしもし』

焦がれていた久しぶりの征士の声は妙なガラガラ声で、征士は続けて何度も咳払いをした。

「おいおい。大丈夫かぁ?」

それがギリギリまで張り詰めた緊張の糸を緩めてくれた。

『どこからかけている?』

征士の声に照れ隠しが入っているのがわかる。耳に心地いい。

「ああ、うん。大学の寮だ」

電話は寮の共用のもので、座って話せる公衆電話ボックスのような形になっていて、次に通話したい人がいれば後ろに並ぶ。
今は、三台ある電話を使っているのは俺だけだった。

『元気か』

征士の言葉に、胸が詰まる。

「ああ」

不自然に思われないように、やっとそれだけ答えた。

『どうした。何か用があるのではないのか』

声を聞くだけのはずだったのに、聞いてしまえば欲が出る。

「ああ」

もう我慢ができなかった。

「来月後半から長いクリスマス休暇なんだ。日本に戻ろうかと思うんだが」

本当は日本に帰る予定なんて、それまで微塵も考えてはいなかったのに。

会いたい。

「……一度、顔を見に行きたいと思って」

言ってしまった途端に後悔が押し寄せる。
征士は受験生だ。
俺に会う時間などとっている場合ではないのに決まっているのに。
顔を見てしまえば、更に思いは募ることだって、分かりきっているのに。

断ってほしい。俺は自分から話を持ちかけておいて、そんな勝手なことを願った。

『顔?……私のか』

返答はYesかNoか。
構えていたら、返ってきたのはそんなとぼけた返事だったので、思わず笑ってしまった。

「まぁな」

ダメだ。
やはりどうしても。
一目だけでも会いたい。

「予定が合えば、成田から直接仙台に行けるかと思ってな。でも受験だし、忙しいだろう?一回皆で行ったから俺、お前の家まで自分で行けると思うし、もちろん顔を見たらすぐ帰るから……」

『大丈夫だ。いつでも、大丈夫だ』

言い訳がましい俺の言葉を遮るように、征士がそう言った。

「いつでも?」

どうやら歓迎してくれているらしいことにホッとしたのと、いつになく余裕のなさそうな征士の様子が可笑しくて、つい、また笑った。
笑っている自分の声で、更に肩の力が抜けた。

いつもそうだ。
征士は俺を一番搔き乱し、そして俺をいつも一番、楽にしてくれる。

『受験生だからこそ、部活もなければ旅行にも行かん。ただひたすら家で机にかじりついているか、身体がなまらんように道場で竹刀を振っているだけだ。いつでも来てくれ。……そうだ。少し待てるか』

「ああ」

足音が遠ざかる。
受話器は征士のいる空間に繋がっている。

征士に会える。
素直に嬉しい気持ちとまだ残る後悔とがないまぜになる。

すぐにまた足音が聞こえ、征士が話し出した。

『もし、お前の都合が悪くなければ、当麻』

「ん?」

『顔を見るだけなどと言わずに、そのまま一週間くらいうちにいて、私に勉強を教えてくれないか』

願っていたのは会うことだけだったのに。
一週間。
俺は平静でいられるのだろうか。
そんな心配とは裏腹に、目は壁にかかった小さなカレンダーを見て、唇は勝手にこう答えていた。

「ああ、そうだな。三日くらいなら……」



「俺のこと、好きだとか言い出すんじゃないだろうな」



『何を馬鹿なことを言っている』

そう征士が答え、二人で笑って、この話が終わればいいと思った。

そんな夢のような馬鹿げたことが、あるはずはない。
笑い飛ばして、俺の想いもついでにまとめておしまいにしようと思った。



口づけた瞬間は、当麻が私を押し返そうと腕に力を込めた気がした。
しかし次の瞬間、当麻の身体から力が抜け、そのまま気を失うように椅子から雪崩れ落ちた。

畳の上に仰向けになった当麻の顔は真っ青なままで、頭でも打ったのかと心配になった。

「大丈夫か」

肩を起こそうと手を添えると、当麻は震える手でゆっくりと私の手を制し、のろのろと起き上がった。

「……大丈夫だ」

やっと聞き取れるくらいの声で呟くと、当麻は部屋を出て行った。

「こたつ、借りる」

掛ける言葉もなく、私は馬鹿みたいに突っ立って、当麻が階段を降りてしまうまで見送った。



俺の存在が周囲の人間を狂わせる。

「馬鹿ねぇ。当麻クンのせいなんかじゃないのよ……」

いつの間にか母さんがいて、俺の額に冷たいタオルをおいてくれた。

(気持ちがいい)

目を開けると、そこにいたのは母さんではなく、征士のおふくろさんだった。
俺は居間のこたつに潜り込んだはずだったのだが、知らない部屋の布団に寝かされていた。

「目が覚めましたか。ご気分はいかが?」

状況が飲み込めずに辺りを見回していると、

「熱があるって、征士さんが朝、あなたをここまで運んだのです。まったく、遠くから帰ってきたばかりだと言うのにお義父さまと主人が一日中連れ回したりするから、お疲れになりましたよね。本当に申し訳ありません。朝御飯、お持ちしますね」

征士のおふくろさんはそう言って、襖の向こうに行ってしまった。

もぞもぞと頭を動かして時計を探す。
柱に掛けられた古めかしい時計は、もう朝の八時が過ぎていることを示していた。

夕べはまだ暖かさの残るこたつに潜り込んでみたものの、頭が混乱して眠ることなんてできなかった。

征士のそばは心地よかった。
冷えて固まった心が温かく柔らかくなるのがわかる。
久しぶりに深く眠ることができた。

征士が俺を見ていることは、時々感じていた。
でもそれは、アメリカで散々な目に遭ってきた俺の、単なる勘違いだと思おうとしていた。
それなのに。

征士が俺にしたことは、確かにキスだった。
そして征士は俺にこう言った。

「お前のせいだ」

来るべきではなかった。二度と会ってはいけなかった。こんなことになるのなら。



襖が開いて、味噌汁の香りと一緒に部屋に入ってきたのは征士だった。

「食べられそうか」

征士は俺の枕元に、朝食ののったお盆を置いた。
俺は黙って征士の顔を見た。
征士の目は落ち着いていて、静かに俺を見下ろしている。
上体を起こしてみると、気分は悪くなかった。

「昨日は悪かった」

征士はきちんと正座をして背筋を伸ばし、実に征士らしく静かにそう言った。

「何のことだ。昨日は急に気分が悪くなって、勉強に付き合えずに悪かった」

俺は征士の目を見ないで言った。
なかったことにできるのなら、そうしたいと思った。
そうすれば、せめてこの先も友人のような顔をしていることはできるかもしれない。

しかし征士はそれを許してはくれなかった。

「夕べ私がお前にしたことは、たいそう失礼だった。謝る。でも私は……」

「言うなって!」

両耳を塞いで下を向き、俺は叫んだ。
征士はそんな俺の両手を掴んで、俺の腿の上にそのまま置いた。

「私は、お前が好きだ。当麻」



朝、稽古のために起きて階下に降り、そっと覗くと、居間のこたつに当麻の姿があった。
息が荒い。
眠っているが、ひたいに触れると汗をかいて酷く熱い。

客間に布団を運んで敷き、こたつの中の当麻を苦労して抱き上げて、客間まで連れて行った。
布団にそっと下ろし、掛布をかける。

こんなことをされても目を覚まさないのは、さすが当麻だと微笑ましく思う。
寝顔を見て、改めて考える。
私は当麻が好きだ。

受け入れてもらえないのなら、今はそれでも仕方がない。
真実を知って壊れるものなら、また時間をかけて作り直すしかない。


「お前が好きだ、当麻」

聞きたくないと拒絶する当麻に、私はもう一度、はっきりと伝えた。
当麻は抵抗する手の力を抜いて、私を見た。

「だとしたら、それは俺のせいだ」

「お前のせい?」

「そうだ」

私が当麻のことを好ましく思うのを、当麻のせいだと言われれば、それはそうなのかもしれない。
しかしそれはあくまでも私の気持ちであり、意志のはずだ。

「俺が悪いんだ。だから、できるだけ会わないようにもしていたんだ。あの電話の時だって、本当は声だけ聞くつもりで……」

「数学を教えてもらえばたいそうよくわかるのに、お前の言うことは時々よくわからない。もう少し、わかりやすく話せ」



クリスマスイブの晩に、家族以外の者が家にいるのは初めてのように思う。
冬の夜道を当麻と二人で教会まで歩く。
すぐ前には父と母、姉と妹。
祖父は膝が痛むと言って、家に残った。

大切な夜に、隣に当麻がいる。
お互いを思い合って。

当麻がどうして自分を責めるのか、当麻の歩いてきた平坦ではなかった道を知り、私はようやく少し理解することができた。
当麻が一番苦しかった時、共にあったにもかわらず力になれなかったことを、私は心から悔やみ、詫びた。
そして私が当麻のことを好きだと感じたのが、当麻に出会ってまだ間もない頃であると知り、当麻は安堵を得たようだった。

礼拝堂で。
今、隣にいる当麻は何を考えているのだろう。
私の心はとても穏やかだ。
当麻もそうであるといいと願った。



「クリスマスの夜も勉強、勉強か。受験生は大変だなぁ」

「お前の作る問題、物理は少し難しすぎないか」

「そのくらいわかってなくては、世界の最先端についていけないぞ。ほら、早く解け」

当麻はそう言いながら立ち上がり、自分の座っていた椅子を私の座る椅子のすぐ横に動かした。そして私に背を向ける形で座り直すと、私に身体を寄せ、肩に頭を預けてきた。

「ただの大学受験。しかもセンター試験対策だ。世界の最先端は要らん」

できるだけ平静を装って、私はそのまま鉛筆を動かす。

「やっぱり落ち着くなぁ……」

眠ってしまったのだろうか。
当麻はそれきり黙ってしまった。
私は肩の重みをくすぐったく感じながら、当麻の書いた問題を解いていった。



大阪に帰るのかと思えば、アメリカに帰るのだという。
当麻は本当に私に会うためだけに日本へやってきたのだった。
寮に帰っても件のルームメイトは帰省していると聞いて、ひとまずホッとする。

「日本の占いでは方角が悪いから、部屋を変えてくれとでも言え」

そうだな、と当麻は笑った。

「教授には、ちゃんと言ってみるよ。その……」

来た時のままの軽装で玄関に立つ当麻は、恥ずかしそうに下を向き、やっと私に届く小さな声で言った。

「日本に……大切な人がいるって」

「そうしてくれ」

仙台駅まで見送りに行くと言った私を、受験生が無駄に人混みに出るんじゃないと諌め、当麻は父の運転する車に乗って行ってしまった。

問題は山積みだが、一つずつ何とかしていくしかない。

きっと、できるだろう。

寒い階段を上って、部屋に戻る。
当麻の置いていったノートを開き、鉛筆をとった。



おわり
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