たいいくのひ
since November 22th 2012
【098-01】家庭教師 前
緑青。
大した描写はありませんが、暴力あり。閲覧注意。
**********
「征士さん、電話です。羽柴さんから」
十一月も間もなく終わる。
階下からの姉の凛と張った声に、私は返事も忘れて立ち上がり、廊下へと続く襖を勢いよく開けた。
「国際電話だそうだから、急いで出て差し上げなさい」
言われなくても足はすでに急いでいた。
バタバタと階段を下りる。
「そんな風に駆け下りると、滑って落ちますよ」
大学受験追い込みの最中にある私にわざとそんな口を叩いて、姉は居間へと戻っていった。
古くて広いこの家の玄関はひどく寒く、家の中だというのに吐く息は白い。
玄関脇のプッシュホンの受話器を取ると、保留中に流れる電子音のメロディが止まった。
「もしもし」
夕食の後、もう三時間ほども部屋で一人で黙って勉強していたので、声がかすれてしまっていた。
慌てて二、三度咳払いをする。
『おいおい。大丈夫かぁ?』
久しぶりの当麻の声。
楽しそうに目を丸くした顔が目に浮かぶ。
声を聞いたのは九月に皆で壮行会をして、空港で見送って以来だ。
「どこからかけている?」
声が整うと、大丈夫かという当麻の問いには答えず、質問を投げ返した。
『ああ、うん。大学の寮』
当麻は通っていた大阪の高校を夏で仕舞いにして、アメリカの大学に入学していた。
量子だか素粒子だかの物理を研究しているらしい。
「元気か」
そう聞くと、当麻は一瞬何か考えるように間を開けてから、
『ああ』
と答えた。
「どうした。何か用があるのではないのか」
当麻がまだ大阪にいた頃は、伸からの連絡を秀が遼へ、私が当麻へと伝えるのが、なぜか慣例になっていた。
だから私から当麻に電話をしたことは幾度もあったのだが、考えてみると今まで当麻から私へ電話がかかってくるということはなかったように思う。
『ああ、うん。……来月後半から長いクリスマス休暇なんだ。日本に戻ろうかと思うんだが、一度……顔を見に行きたいと思って』
当麻は言った。
「顔?……私のか」
何か余程の用があるのではないかと構えていたので拍子抜けた。
『まぁな』
そんな私の返答が可笑しかったのか、当麻はまた少し笑った。
『予定が合えば、成田から大阪に帰らないで直接仙台に行けるかと思ってな。でもお前、受験だし、忙しいだろう?一度、皆で行っているから俺、お前の家まで自分で行けるし、もちろん顔を見たらすぐ帰るから……』
「大丈夫だ。いつでも、大丈夫だ」
当麻の話が終わらないうちに、私はそう答えていた。
『いつでも?』
当麻はまたクックッと笑いを噛み殺しているようだ。
受験生のくせにと呆れられたのだろうか。
「受験生だからこそ、部活もなければ旅行にも行かん。ただひたすら家で机にかじりついているか、身体がなまらんように道場で竹刀を振っているだけだ。いつでも来てくれ」
とっくに受験生を卒業した当麻に先輩風を吹かされた気がして、多少ふてくされ気味にそこまで話したところで、ふとある考えが浮かんだ。
「……そうだ。少し待てるか」
『ああ』
私は家族に了承してもらうべく、受話器をそのまま電話の前に置くと居間に走った。
祖父、両親に姉、妹。家族はそこに皆揃っていて、私の思いつきはすぐ全員に快く許された。
妹の皐月などは飛び上がって喜んだ。
冷えた廊下を小走りに戻る。
我ながら名案が浮かんだものだ。
当麻は引き受けてくれるだろうか。
弾んだ息を整えながら、また受話器を掴んだ。
「もし、お前の都合が悪くなければ、当麻」
『ん?』
「顔を見るだけなどと言わずに、そのまま一週間くらいうちにいて、私の家庭教師をしてくれないか」
*
クリスマスまであと四日という土曜日。
当麻がやってきた。
「荷物はそれだけか」
「ああ」
外国帰りなのだから大きなスーツケースの一つや二つ持ってくるものだと思っていたのに、背中に小さなバックパックと左手に一つ紙袋を下げただけの当麻を見て、久しぶりの会話はそんなふうに始まった。
「後から送られてくるのか」
「いや、これだけ。悪いが洗濯機は貸してほしい」
「征士さん」
もちろん構わないと答える間もなく、家の奥から母が出て来た。
「こんなところで何ですか。早く入っていただきなさい。さぁどうぞ、当麻さん。征士がお世話になります」
「こちらこそ年末のお忙しい時期に、図々しくお邪魔します」
当麻はにっこり笑って母に頭を下げた。
実に場に相応しく礼儀正しいその挨拶に、母も満足そうだ。
仲間内では我がまま気ままで、およそ社会でまともなコミュニケーションが取れそうもないようなのに、外ヅラの当麻は意外と如才ない。
初めてそれを見たときは、やればできるのに内輪では何故やらぬのかと腹も立ったが、今では私たち仲間だけに特別に見せる顔を愛しく思う。
愛しい。
そう。
それが、私が当麻に対して抱いている感情なのだ。
いつからなのかは思い出してもよくわからないのだが、おそらく出会って間もない頃からだったのではないかと、今では思っている。
周囲の友人達が恋だの愛だのセックスだのの話題で盛り上がる中、一向に女性に何かしらをも感じない自分を、どこかおかしいのではないかと思い始めた高校生活。
ずっと友情だと思い込んでいた当麻への特別な感情をふと思い出し、初めて腑に落ちた。
自分には羽柴当麻がその対象なのだ。
私はそういった恋愛をする類の人間なのだと。
そう考えれば、私がそれまで当麻に対して抱いていた様々なよくわからない感情が、友人たちが話すところのそういうことにぴったりとあてはまった。
よくもここまで、そうだとは気づかずに過ごしてきたものだと、自分で自分に呆れ果てた。
「一度いらしただけなのに、よくお一人でここまで来られましたね。駅までお迎えにも行けましたのに」
「地図は得意なんです。バスの本数も多いし、五日もお世話になるんですから、辺りの様子も知っておきたいし」
一週間という私の提案に対して、当麻の答えはイブの朝に仙台を発つ三日間の日程だった。
そこを何とか我が家のクリスマスに参加してほしいと、妹も喜ぶからと説き伏せて、五日間。
少しでも長く当麻を留めておきたい。
その一心だった。
当麻が私の思惑を知らないことをいいことに、そんな気持ちを隠したまま当麻を家に呼び入れる自分は、実はけっこう姑息な人間なのだと思う。
当麻が持ってきた紙袋の中身は私の家族への土産で、伊達家の女性陣の喜びそうな菓子やら雑貨がいくつも入っていた。
家族への挨拶を済ませた当麻と私は、二階の私の部屋へと上がった。
「お邪魔しまーす」
当麻は少しばかりおどけたような口調でそう言った。
「相変わらず地味な部屋だなぁ」
「そうか」
何の変哲もない、学習机とタンスと本棚があるだけの和室だ。
旧家の無駄に大きな家で、私の部屋もいくらか広めではあるので、二人分の布団くらいは敷くことができる。
部屋の隅には干したばかりの当麻のための寝具が積み上げてあった。
「疲れたぁ……」
その重なった布団の上に、当麻はどさりと覆い被さり目を瞑った。
「痩せたか?」
本当は荷物の少なさよりも先に気になったことだった。
痩せたし、大人びた。
背も伸びた。
出会った頃は私の方が高かったのに、いつの間にか抜かれてしまった。
その差は、会わなかったこの数ヶ月でさらに開いたように思う。
そして、それを差し引いても、まとっている雰囲気が九月とは明らかに違っていた。
「そうかぁ?……飯が不味いんだよなぁ、アメリカ。だからかもな……」
当麻は目を閉じたまま、呟くように言った。
「今夜の食事は母と姉がお前のためにと腕を振る
っていたようだぞ。楽しみにしておけ」
「本当か!」
当麻の両目がまるで音が聞こえるようにパチリと開いて、嬉しそうに私を見た。
ああ、この当麻は変わらない、アメリカに行く前の、私のよく知っている当麻だ。
私もつられて嬉しくなった。
*
当麻の小さな荷物の中には、大きさが辞書一冊分くらいしかない見たこともない小型のコンピューターが入っていて、その中に私のための物理と化学、数学の問題がぎっしりと詰まっているのだという。
印刷するための機械は大きくて持ってこられないとのことで、私が問題を解いている間に当麻がノートに問題を書き写した。
当麻の書く文字が、私はとても好きだ。
横罫が引かれただけの大学ノートに、まるで方眼用紙に書かれたように美しくひどく整然と並んだ当麻の文字は、自由な気質に対して意外なような気もしたし、実に彼に相応しいようにも思われる。
これはここで初めて知ったことだが、驚いたことに表やグラフも当麻は道具を何も使わずに、計りもせずに実に正確に書くのである。
「物差しを使わないのか」
私が驚いていると、当麻は、
「今はそんなものばかり書いて暮らしているからな。いちいち定規を当てていたんじゃ間に合わないんだ」
さも大したことではないように答える。
「それにしてもまっすぐに引けるものだな」
まっすぐに見えて、しかしどこかに人の温かみがあるそのラインがとても好ましくて、私は問題を解くのも忘れて眺めてしまうこともあるほどだった。
「それにしても。けっこう難しいところを目指すんだな、大学」
当麻は問題をノートに書く手を止め、母が夕食後に当麻のためにいれた温かいココアを口にしながら、そんなことを言った。
「そうだな」
「まだ警官志望?」
家庭教師を請け負ってもらうに当たり、志望校は伝えておいた。
将来の職業の希望は、依然何となく話していたのを当麻が覚えていてくれたようだ。
そんな些細なことでまた嬉しくなってしまう。
緩みそうになった顔を慌てて引き締める。
「ああ。……できれば本当は剣道で入って、仕事でも剣道ができる部署につきたいのだが」
「へぇ。そんな仕事があるのか」
「ああ。警察官相手に剣道を指導する仕事だ。しかし剣道で全国トップクラスの実力がなくてはならん」
私も手を止めて、ため息をついた。
受験勉強に時間を割かねばならぬのは仕方がないが、その間にも剣のライバル達は日々練習を積んで強くなっているだろうと思うと落ち着かない。
「お前、高校最後の全国大会、二位だっただろう。十分じゃないのか」
夏にあった最後の大会は、遼と当麻が東京まで応援に来てくれたのだった。
本当は優勝したかったのだが、同じ優勝候補であった相手の調子の方が上だった。
「準優勝は本意ではない。それに高校生に勝っていればいいというものでもない」
「固いねぇ」
当麻の声は完全に呆れている。
顔を見れば目が合って、何だかばつが悪くなり、私はノートに視線を戻した。
「それに怪我でもすればすべて終わりだからな。剣道抜きでも入れるようにしておかなければ」
「ま、がんばりましょ」
当麻もまた、私の隣で鉛筆を動かし始めた。
十一時。もう寝るのかと驚かれたが、朝型で通してきたので布団を二組、並べて敷いた。
「無理につきあうことはないぞ。机を使ってもらっても構わん」
一緒に生活していたときには、当麻は規則正しさの欠片もない昼夜バラバラの生活をしていた。
私が休むときにはたいてい書庫にこもっていていないか、ベッドヘッドの明かりをつけて何か読んでいた。
朝、私が起きた時まで同じ状態でいることも珍しくなかった。
「居間も誰もいなくなっているだろうから、こたつに入って本を読んでいても構わんぞ」
「いや、最近夜は寝るようにしているんだ。同じ部屋の奴にも迷惑だし、朝も早いしな」
しかし当麻はそう言って、素直に自分の布団に入って横になった。
「ほう。成長したものだな」
寮が二人部屋だということは、日中、家族と話をしている中で当麻が話していた。
あの時の自分と同じように当麻と同じ部屋で暮らしている男がいるのかと改めて考えると、しても仕方のない嫉妬を覚えた。
「その男は……」
話しかけると、当麻はもう寝息を立てていた。
*
「寒い!寒すぎる!」
まだ日も昇らない、冬の朝五時の道場は寒いに決まっている。
当麻は昨日とまるで同じことを、腕を組んで背中を丸め、足踏みをするまったく同じポーズで叫んだ。
「無理につきあわずともよいと言ったはずだ」
「つきあうよ!……そのために居候しているんだからな。くそっ。寒い!」
当麻は竹刀をとると、私より先に素振りを始めた。
「さすがだな。昨日教えたことが、もう身についている」
当麻はもう返事もしないでひたすら上下素振りを繰り返してる。
白い蛍光灯の光に、背中のピンと伸びた当麻の姿。
光の当たり方によって青く見える不思議な髪の色が、より冷たい清潔な青に見えた。
もう額にはうっすらと汗が浮かび、瞳は凛としてまっすぐ前を見定めている。
「何を突っ立ってるんだ?征士。お前の稽古だろう」
当麻に声をかけられて、私はその場に立ち尽くしていたことにようやく気がついた。
裸足の足先が冷えきって痛くなっている。
「見惚れてるんじゃないぞ、アホウ」
「見惚れて……」
図星を突かれて顔が赤くなってしまったような気がして、私も慌てて当麻に並んで素振りを始めた。
昼過ぎには戻るから数学の問題を全て解いておくようにと言い残して、当麻は父の運転で祖父と一緒に仙台観光に出かけてしまった。
青葉城界隈を見てから牛タンを食べて帰ってくるつもりらしい。
当麻は仙台の郷土史に興味津々であるし囲碁や将棋にも明るいため、すっかり祖父のお気に入りになっていた。
まさかついて行くというわけにもいかず、私は一人、部屋で当麻の残していった問題を解き始めた。
問題は、私の志望校の傾向と私の得意不得意を考慮して、当麻が全て自分で作ったものだという。
大学だって暇ではなかろうに、当麻は一体どのくらい準備に時間をかけてくれたのだろう。相当な労力だったに違いない。
当麻の書いた文字を、線を、指でなぞる。
昨夜は夜中に目が覚めてしまった。
隣の布団に寝ている当麻の横顔が、障子越しの月明かりに青く照らされていた。
触れたい。髪に、頰に、唇に。
はっきりと、そう思った。
そのまま手を伸ばし、指が髪に触れそうになったところで当麻が寝返りをうったので、私は我に返った。
「遅くなって悪かったな。わからないところ、あっただろ?」
御一行が帰って来たのは夕方だった。
祖父と父の旺盛な サービス精神により、市内観光の有名どころはほとんど回ってきたようだ。
「お祖父様のワガママに付き合うのは大変だっただろう。少し休んだらいい」
「俺の本業は家庭教師だ。遊びに来たんじゃない。ほら、わからなかったところを見せてみろ」
私がノートを手渡すと、当麻はそれをパラパラとめくった。
ただめくっているように見えるのに、時々手を止めては何かを書き込むから、きちんと読んでいるのだ。
一通りめくった後、続きにスラスラとまた問題を書き足していく。
時に小型コンピューターの小さな窓に映し出された英語と数列を覗き、また書き込んでいく。
「赤入れたとこ、見直してみろ。おそらく何が間違いか、自分でわかるはずだ。それが終わったら、続きの問題な」
言われた通りで、間違えていたところは、目の付けどころのヒントさえもらえば自分で正しく解くことのできるものだった。
続きの問題に手をつけながら、当麻はなぜこんなに私のことを見通しているのだろうかと考える。
私は当麻のことを好ましく思いながら、当麻のことをどれほどもわかってはいない。
「ぼーっとしてないで、ちゃんと解けよ」
また見抜かれていた。
夕食後、今度は姉と妹が当麻を居間から逃さないので、私は仕方なく一人で黙々と問題を解いていた。
妹は当麻にアメリカに彼女はいるのかと尋ねていた。
当麻がいないと答えると、では好ましく感じる人はいるのかとしつこく聞く。
「いるよ、日本に」
と、当麻は答えた。
姉と妹は色めき立って、当麻を 根掘り葉掘り質問責めにしはじめた。
大学生なのだ。
好きな人の一人や二人、いて当然であろう。
しかし私はいたたまれない心持ちになって、居間を退散した。
一人でいても、私は結局のところ当麻のことばかり考えていた。
作業は捗らず、イライラが募る。
しばらくすると当麻が上がってきて、私が進めたところをチェックし、あまり進んでないなどと小言を言った。
「お前のせいだ」
つい口をついて出てしまった。
当麻の顔色が見る見る蒼白になった。
「すまん、当麻」
呼ばれて教えているのに、勉強が進まないのを自分のせいだなどと言われれば気分を害するのは当然だろう。
私はペンを握ったまま手を震わせている当麻にとりあえず詫びた。
「いや……悪い、お前のせいじゃ……」
当麻は顔色の悪いまま、無理に笑おうとしているように見えた。
お前のせい。
私がそう言っただけで、当麻のこの反応は少しおかしい。
そうか。
私は頭を殴られたような気がした。
当麻はここにきて薄々気付いていたのだ。私が当麻に抱いている思いに。
そしてさっきの私の心ない一言で、当麻はそれを確信しようとしている。
そしてこれは想像していたことではあったが、私の想いは当麻にとって、受け入れられるものではなかったのだ。
当麻は黙ったままだ。
「当麻は……。なぜ、こんなに私に親切にしてくれるのだ」
どうして畳み掛けてしまうのか。
もう少しよく考えてから話そうと考えていたはずなのに、気づいたら言葉はもう出てしまった後だった。
「どうしてって……。友達だからだろう」
当麻は私を見ないで、震える声で絞り出すように言った。
「当麻は友達だったら、誰にでもここまでするのか。伸にも、秀にも、遼にも、私にしてくれるのと同じように、こんな遠いところまで泊まりがけで来て、準備もこんなにして……」
「何が言いたいんだ。ちょっと待てよ、征士」
当麻はようやく私の方を向いた。見たこともないような不安に満ちた目で、私を見た。
「まさかお前、……俺のことが……」
どうしたらいいのかわからない。気づいたら私は当麻の肩を椅子に押さえつけ、当麻に口づけていた。
後半へつづく
大した描写はありませんが、暴力あり。閲覧注意。
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「征士さん、電話です。羽柴さんから」
十一月も間もなく終わる。
階下からの姉の凛と張った声に、私は返事も忘れて立ち上がり、廊下へと続く襖を勢いよく開けた。
「国際電話だそうだから、急いで出て差し上げなさい」
言われなくても足はすでに急いでいた。
バタバタと階段を下りる。
「そんな風に駆け下りると、滑って落ちますよ」
大学受験追い込みの最中にある私にわざとそんな口を叩いて、姉は居間へと戻っていった。
古くて広いこの家の玄関はひどく寒く、家の中だというのに吐く息は白い。
玄関脇のプッシュホンの受話器を取ると、保留中に流れる電子音のメロディが止まった。
「もしもし」
夕食の後、もう三時間ほども部屋で一人で黙って勉強していたので、声がかすれてしまっていた。
慌てて二、三度咳払いをする。
『おいおい。大丈夫かぁ?』
久しぶりの当麻の声。
楽しそうに目を丸くした顔が目に浮かぶ。
声を聞いたのは九月に皆で壮行会をして、空港で見送って以来だ。
「どこからかけている?」
声が整うと、大丈夫かという当麻の問いには答えず、質問を投げ返した。
『ああ、うん。大学の寮』
当麻は通っていた大阪の高校を夏で仕舞いにして、アメリカの大学に入学していた。
量子だか素粒子だかの物理を研究しているらしい。
「元気か」
そう聞くと、当麻は一瞬何か考えるように間を開けてから、
『ああ』
と答えた。
「どうした。何か用があるのではないのか」
当麻がまだ大阪にいた頃は、伸からの連絡を秀が遼へ、私が当麻へと伝えるのが、なぜか慣例になっていた。
だから私から当麻に電話をしたことは幾度もあったのだが、考えてみると今まで当麻から私へ電話がかかってくるということはなかったように思う。
『ああ、うん。……来月後半から長いクリスマス休暇なんだ。日本に戻ろうかと思うんだが、一度……顔を見に行きたいと思って』
当麻は言った。
「顔?……私のか」
何か余程の用があるのではないかと構えていたので拍子抜けた。
『まぁな』
そんな私の返答が可笑しかったのか、当麻はまた少し笑った。
『予定が合えば、成田から大阪に帰らないで直接仙台に行けるかと思ってな。でもお前、受験だし、忙しいだろう?一度、皆で行っているから俺、お前の家まで自分で行けるし、もちろん顔を見たらすぐ帰るから……』
「大丈夫だ。いつでも、大丈夫だ」
当麻の話が終わらないうちに、私はそう答えていた。
『いつでも?』
当麻はまたクックッと笑いを噛み殺しているようだ。
受験生のくせにと呆れられたのだろうか。
「受験生だからこそ、部活もなければ旅行にも行かん。ただひたすら家で机にかじりついているか、身体がなまらんように道場で竹刀を振っているだけだ。いつでも来てくれ」
とっくに受験生を卒業した当麻に先輩風を吹かされた気がして、多少ふてくされ気味にそこまで話したところで、ふとある考えが浮かんだ。
「……そうだ。少し待てるか」
『ああ』
私は家族に了承してもらうべく、受話器をそのまま電話の前に置くと居間に走った。
祖父、両親に姉、妹。家族はそこに皆揃っていて、私の思いつきはすぐ全員に快く許された。
妹の皐月などは飛び上がって喜んだ。
冷えた廊下を小走りに戻る。
我ながら名案が浮かんだものだ。
当麻は引き受けてくれるだろうか。
弾んだ息を整えながら、また受話器を掴んだ。
「もし、お前の都合が悪くなければ、当麻」
『ん?』
「顔を見るだけなどと言わずに、そのまま一週間くらいうちにいて、私の家庭教師をしてくれないか」
*
クリスマスまであと四日という土曜日。
当麻がやってきた。
「荷物はそれだけか」
「ああ」
外国帰りなのだから大きなスーツケースの一つや二つ持ってくるものだと思っていたのに、背中に小さなバックパックと左手に一つ紙袋を下げただけの当麻を見て、久しぶりの会話はそんなふうに始まった。
「後から送られてくるのか」
「いや、これだけ。悪いが洗濯機は貸してほしい」
「征士さん」
もちろん構わないと答える間もなく、家の奥から母が出て来た。
「こんなところで何ですか。早く入っていただきなさい。さぁどうぞ、当麻さん。征士がお世話になります」
「こちらこそ年末のお忙しい時期に、図々しくお邪魔します」
当麻はにっこり笑って母に頭を下げた。
実に場に相応しく礼儀正しいその挨拶に、母も満足そうだ。
仲間内では我がまま気ままで、およそ社会でまともなコミュニケーションが取れそうもないようなのに、外ヅラの当麻は意外と如才ない。
初めてそれを見たときは、やればできるのに内輪では何故やらぬのかと腹も立ったが、今では私たち仲間だけに特別に見せる顔を愛しく思う。
愛しい。
そう。
それが、私が当麻に対して抱いている感情なのだ。
いつからなのかは思い出してもよくわからないのだが、おそらく出会って間もない頃からだったのではないかと、今では思っている。
周囲の友人達が恋だの愛だのセックスだのの話題で盛り上がる中、一向に女性に何かしらをも感じない自分を、どこかおかしいのではないかと思い始めた高校生活。
ずっと友情だと思い込んでいた当麻への特別な感情をふと思い出し、初めて腑に落ちた。
自分には羽柴当麻がその対象なのだ。
私はそういった恋愛をする類の人間なのだと。
そう考えれば、私がそれまで当麻に対して抱いていた様々なよくわからない感情が、友人たちが話すところのそういうことにぴったりとあてはまった。
よくもここまで、そうだとは気づかずに過ごしてきたものだと、自分で自分に呆れ果てた。
「一度いらしただけなのに、よくお一人でここまで来られましたね。駅までお迎えにも行けましたのに」
「地図は得意なんです。バスの本数も多いし、五日もお世話になるんですから、辺りの様子も知っておきたいし」
一週間という私の提案に対して、当麻の答えはイブの朝に仙台を発つ三日間の日程だった。
そこを何とか我が家のクリスマスに参加してほしいと、妹も喜ぶからと説き伏せて、五日間。
少しでも長く当麻を留めておきたい。
その一心だった。
当麻が私の思惑を知らないことをいいことに、そんな気持ちを隠したまま当麻を家に呼び入れる自分は、実はけっこう姑息な人間なのだと思う。
当麻が持ってきた紙袋の中身は私の家族への土産で、伊達家の女性陣の喜びそうな菓子やら雑貨がいくつも入っていた。
家族への挨拶を済ませた当麻と私は、二階の私の部屋へと上がった。
「お邪魔しまーす」
当麻は少しばかりおどけたような口調でそう言った。
「相変わらず地味な部屋だなぁ」
「そうか」
何の変哲もない、学習机とタンスと本棚があるだけの和室だ。
旧家の無駄に大きな家で、私の部屋もいくらか広めではあるので、二人分の布団くらいは敷くことができる。
部屋の隅には干したばかりの当麻のための寝具が積み上げてあった。
「疲れたぁ……」
その重なった布団の上に、当麻はどさりと覆い被さり目を瞑った。
「痩せたか?」
本当は荷物の少なさよりも先に気になったことだった。
痩せたし、大人びた。
背も伸びた。
出会った頃は私の方が高かったのに、いつの間にか抜かれてしまった。
その差は、会わなかったこの数ヶ月でさらに開いたように思う。
そして、それを差し引いても、まとっている雰囲気が九月とは明らかに違っていた。
「そうかぁ?……飯が不味いんだよなぁ、アメリカ。だからかもな……」
当麻は目を閉じたまま、呟くように言った。
「今夜の食事は母と姉がお前のためにと腕を振る
っていたようだぞ。楽しみにしておけ」
「本当か!」
当麻の両目がまるで音が聞こえるようにパチリと開いて、嬉しそうに私を見た。
ああ、この当麻は変わらない、アメリカに行く前の、私のよく知っている当麻だ。
私もつられて嬉しくなった。
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当麻の小さな荷物の中には、大きさが辞書一冊分くらいしかない見たこともない小型のコンピューターが入っていて、その中に私のための物理と化学、数学の問題がぎっしりと詰まっているのだという。
印刷するための機械は大きくて持ってこられないとのことで、私が問題を解いている間に当麻がノートに問題を書き写した。
当麻の書く文字が、私はとても好きだ。
横罫が引かれただけの大学ノートに、まるで方眼用紙に書かれたように美しくひどく整然と並んだ当麻の文字は、自由な気質に対して意外なような気もしたし、実に彼に相応しいようにも思われる。
これはここで初めて知ったことだが、驚いたことに表やグラフも当麻は道具を何も使わずに、計りもせずに実に正確に書くのである。
「物差しを使わないのか」
私が驚いていると、当麻は、
「今はそんなものばかり書いて暮らしているからな。いちいち定規を当てていたんじゃ間に合わないんだ」
さも大したことではないように答える。
「それにしてもまっすぐに引けるものだな」
まっすぐに見えて、しかしどこかに人の温かみがあるそのラインがとても好ましくて、私は問題を解くのも忘れて眺めてしまうこともあるほどだった。
「それにしても。けっこう難しいところを目指すんだな、大学」
当麻は問題をノートに書く手を止め、母が夕食後に当麻のためにいれた温かいココアを口にしながら、そんなことを言った。
「そうだな」
「まだ警官志望?」
家庭教師を請け負ってもらうに当たり、志望校は伝えておいた。
将来の職業の希望は、依然何となく話していたのを当麻が覚えていてくれたようだ。
そんな些細なことでまた嬉しくなってしまう。
緩みそうになった顔を慌てて引き締める。
「ああ。……できれば本当は剣道で入って、仕事でも剣道ができる部署につきたいのだが」
「へぇ。そんな仕事があるのか」
「ああ。警察官相手に剣道を指導する仕事だ。しかし剣道で全国トップクラスの実力がなくてはならん」
私も手を止めて、ため息をついた。
受験勉強に時間を割かねばならぬのは仕方がないが、その間にも剣のライバル達は日々練習を積んで強くなっているだろうと思うと落ち着かない。
「お前、高校最後の全国大会、二位だっただろう。十分じゃないのか」
夏にあった最後の大会は、遼と当麻が東京まで応援に来てくれたのだった。
本当は優勝したかったのだが、同じ優勝候補であった相手の調子の方が上だった。
「準優勝は本意ではない。それに高校生に勝っていればいいというものでもない」
「固いねぇ」
当麻の声は完全に呆れている。
顔を見れば目が合って、何だかばつが悪くなり、私はノートに視線を戻した。
「それに怪我でもすればすべて終わりだからな。剣道抜きでも入れるようにしておかなければ」
「ま、がんばりましょ」
当麻もまた、私の隣で鉛筆を動かし始めた。
十一時。もう寝るのかと驚かれたが、朝型で通してきたので布団を二組、並べて敷いた。
「無理につきあうことはないぞ。机を使ってもらっても構わん」
一緒に生活していたときには、当麻は規則正しさの欠片もない昼夜バラバラの生活をしていた。
私が休むときにはたいてい書庫にこもっていていないか、ベッドヘッドの明かりをつけて何か読んでいた。
朝、私が起きた時まで同じ状態でいることも珍しくなかった。
「居間も誰もいなくなっているだろうから、こたつに入って本を読んでいても構わんぞ」
「いや、最近夜は寝るようにしているんだ。同じ部屋の奴にも迷惑だし、朝も早いしな」
しかし当麻はそう言って、素直に自分の布団に入って横になった。
「ほう。成長したものだな」
寮が二人部屋だということは、日中、家族と話をしている中で当麻が話していた。
あの時の自分と同じように当麻と同じ部屋で暮らしている男がいるのかと改めて考えると、しても仕方のない嫉妬を覚えた。
「その男は……」
話しかけると、当麻はもう寝息を立てていた。
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「寒い!寒すぎる!」
まだ日も昇らない、冬の朝五時の道場は寒いに決まっている。
当麻は昨日とまるで同じことを、腕を組んで背中を丸め、足踏みをするまったく同じポーズで叫んだ。
「無理につきあわずともよいと言ったはずだ」
「つきあうよ!……そのために居候しているんだからな。くそっ。寒い!」
当麻は竹刀をとると、私より先に素振りを始めた。
「さすがだな。昨日教えたことが、もう身についている」
当麻はもう返事もしないでひたすら上下素振りを繰り返してる。
白い蛍光灯の光に、背中のピンと伸びた当麻の姿。
光の当たり方によって青く見える不思議な髪の色が、より冷たい清潔な青に見えた。
もう額にはうっすらと汗が浮かび、瞳は凛としてまっすぐ前を見定めている。
「何を突っ立ってるんだ?征士。お前の稽古だろう」
当麻に声をかけられて、私はその場に立ち尽くしていたことにようやく気がついた。
裸足の足先が冷えきって痛くなっている。
「見惚れてるんじゃないぞ、アホウ」
「見惚れて……」
図星を突かれて顔が赤くなってしまったような気がして、私も慌てて当麻に並んで素振りを始めた。
昼過ぎには戻るから数学の問題を全て解いておくようにと言い残して、当麻は父の運転で祖父と一緒に仙台観光に出かけてしまった。
青葉城界隈を見てから牛タンを食べて帰ってくるつもりらしい。
当麻は仙台の郷土史に興味津々であるし囲碁や将棋にも明るいため、すっかり祖父のお気に入りになっていた。
まさかついて行くというわけにもいかず、私は一人、部屋で当麻の残していった問題を解き始めた。
問題は、私の志望校の傾向と私の得意不得意を考慮して、当麻が全て自分で作ったものだという。
大学だって暇ではなかろうに、当麻は一体どのくらい準備に時間をかけてくれたのだろう。相当な労力だったに違いない。
当麻の書いた文字を、線を、指でなぞる。
昨夜は夜中に目が覚めてしまった。
隣の布団に寝ている当麻の横顔が、障子越しの月明かりに青く照らされていた。
触れたい。髪に、頰に、唇に。
はっきりと、そう思った。
そのまま手を伸ばし、指が髪に触れそうになったところで当麻が寝返りをうったので、私は我に返った。
「遅くなって悪かったな。わからないところ、あっただろ?」
御一行が帰って来たのは夕方だった。
祖父と父の旺盛な サービス精神により、市内観光の有名どころはほとんど回ってきたようだ。
「お祖父様のワガママに付き合うのは大変だっただろう。少し休んだらいい」
「俺の本業は家庭教師だ。遊びに来たんじゃない。ほら、わからなかったところを見せてみろ」
私がノートを手渡すと、当麻はそれをパラパラとめくった。
ただめくっているように見えるのに、時々手を止めては何かを書き込むから、きちんと読んでいるのだ。
一通りめくった後、続きにスラスラとまた問題を書き足していく。
時に小型コンピューターの小さな窓に映し出された英語と数列を覗き、また書き込んでいく。
「赤入れたとこ、見直してみろ。おそらく何が間違いか、自分でわかるはずだ。それが終わったら、続きの問題な」
言われた通りで、間違えていたところは、目の付けどころのヒントさえもらえば自分で正しく解くことのできるものだった。
続きの問題に手をつけながら、当麻はなぜこんなに私のことを見通しているのだろうかと考える。
私は当麻のことを好ましく思いながら、当麻のことをどれほどもわかってはいない。
「ぼーっとしてないで、ちゃんと解けよ」
また見抜かれていた。
夕食後、今度は姉と妹が当麻を居間から逃さないので、私は仕方なく一人で黙々と問題を解いていた。
妹は当麻にアメリカに彼女はいるのかと尋ねていた。
当麻がいないと答えると、では好ましく感じる人はいるのかとしつこく聞く。
「いるよ、日本に」
と、当麻は答えた。
姉と妹は色めき立って、当麻を 根掘り葉掘り質問責めにしはじめた。
大学生なのだ。
好きな人の一人や二人、いて当然であろう。
しかし私はいたたまれない心持ちになって、居間を退散した。
一人でいても、私は結局のところ当麻のことばかり考えていた。
作業は捗らず、イライラが募る。
しばらくすると当麻が上がってきて、私が進めたところをチェックし、あまり進んでないなどと小言を言った。
「お前のせいだ」
つい口をついて出てしまった。
当麻の顔色が見る見る蒼白になった。
「すまん、当麻」
呼ばれて教えているのに、勉強が進まないのを自分のせいだなどと言われれば気分を害するのは当然だろう。
私はペンを握ったまま手を震わせている当麻にとりあえず詫びた。
「いや……悪い、お前のせいじゃ……」
当麻は顔色の悪いまま、無理に笑おうとしているように見えた。
お前のせい。
私がそう言っただけで、当麻のこの反応は少しおかしい。
そうか。
私は頭を殴られたような気がした。
当麻はここにきて薄々気付いていたのだ。私が当麻に抱いている思いに。
そしてさっきの私の心ない一言で、当麻はそれを確信しようとしている。
そしてこれは想像していたことではあったが、私の想いは当麻にとって、受け入れられるものではなかったのだ。
当麻は黙ったままだ。
「当麻は……。なぜ、こんなに私に親切にしてくれるのだ」
どうして畳み掛けてしまうのか。
もう少しよく考えてから話そうと考えていたはずなのに、気づいたら言葉はもう出てしまった後だった。
「どうしてって……。友達だからだろう」
当麻は私を見ないで、震える声で絞り出すように言った。
「当麻は友達だったら、誰にでもここまでするのか。伸にも、秀にも、遼にも、私にしてくれるのと同じように、こんな遠いところまで泊まりがけで来て、準備もこんなにして……」
「何が言いたいんだ。ちょっと待てよ、征士」
当麻はようやく私の方を向いた。見たこともないような不安に満ちた目で、私を見た。
「まさかお前、……俺のことが……」
どうしたらいいのかわからない。気づいたら私は当麻の肩を椅子に押さえつけ、当麻に口づけていた。
後半へつづく
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