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【096】次の恋

緑青。
の、はずです。


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「征士。今から出て来られるか?」

電話からやけに落ち着いた当麻の声を聞いたのは、風呂も済ませて一息ついた、金曜の夜八時過ぎだった。

「どうした」

「うん。……当たって砕けた」

その謎かけのような返答の意味するところは、私にはすぐにわかった。
何とも表現のし難い感情が、受話器を持つ方、右の鎖骨の下のあたりから湧き出し、胸の中心に向かって流れ始める。

「どこにいる?」

その流れを遮るように、私は当麻に尋ねた。



部屋から最寄り駅までは走れば五分。
そこから三駅、八分も私鉄に揺られれば、そこは中規模ターミナル駅だ。
当麻はここから出ている別の私鉄の沿線に暮らしている。
当麻がいると言ったのはその中規模ターミナル駅を出て三分も歩けば着く、何度か一緒に飲んだことのあるバーだ。
あの小さな店で、当麻はどんな顔をして私を待っているのだろう。

当麻の恋愛対象がもっぱら男性であるということは、小田原で共に暮らしていた当時に聞いた。
ふとそんな話になったのは、阿羅醐との戦いの最中、二人してなかなか寝付くことができなかった夜の真っ暗な自室での四方山話の最中だったろうか。
気味が悪いかと聞かれたが、恋愛ごとにまったく疎い私にとっては女が好きでも男が好きでも大して違いはないように思えたし、自分が熱心に口説かれるのなら閉口もするが、そうでないなら特にこれといった感慨はないと伝えた。
そして、私はそんな風に人を好きになったことはなかったので、当麻がうらやましいなどと言ったような覚えがある。

そのときの当麻の想い人は郷里の大阪にいる幼馴染みで、くだんの事件で上京する前に思い切って気持ちを伝えてきたのだという。
恋心の告白と同時に別れを告げたので、相手はそのどちらに驚き戸惑ったのかもわからなかったが、おそらく両方に対してであったのだろうと、妙に他人事のように当麻は話した。

阿羅醐との戦いは、私が当初想像していたよりもずっと長く続いた。
命をすり減らすような、常に異常と隣り合わせな日常ではあったが、ほっと息をつくひとときもあった。
時には仲間たちで、恋愛話で盛り上がることも。
そんなとき、当麻は自分のことはうまくあいまいに話し、同性が好きだという話を皆にすることはなかった。
あのことは私にだけに打ち明けてくれた秘密。
それが、当麻が他の誰よりも私のことを近しく思ってくれている証のようで、私は何となく嬉しく感じていた。

当麻は遼のことが好きなのだろうかと、気になっていたこともあった。
当麻が時々遼を見つめているような気がしたのだ。
それはあらためて本人に問うのも気が引けて、実際のところは今でもわからない。

あの戦いを終えて、私たち五人はそれぞれ学校を卒業し、社会人になった。
当麻は、勤め先である研究所の同僚に惚れた。
二人で飲むとき、私はまたそんな話を聞く役になった。

「こんなこと話せるの、征士だけだからさ」

そう言って当麻は、その同僚がどんなに研究に対して誠実で、多くの立派な先輩達の中でも尊敬できる存在であるかを私に語った。



腕時計に目をやると、当麻の電話を切ってからちょうど二十分。
急いだおかげで寒さは感じなかった。
湯冷めは免れたようだ。
少々弾んだ息を整えながら、私は店のドアを開けた。

地下にある店の薄暗い照明の中でも、当麻がいるのはすぐにわかった。
当麻も私に気づいて右手を上げる。

「お前、やけに早いな。どこにいたんだよ」

「どこだと? 私の家に電話をしたのはお前ではなかったか」

当麻は返事の代わりに細いビールグラスに三分の一ほど残った黄金色の液体を一息に飲み干すと、そのグラスを掲げて店員の若い男に振って見せる。

「もう一杯」

二人席の向かいに座った私も急いで、同じものをと店員に伝えた。

「まさか、走ってきたのか」

人を電話で呼びつけたくせに、当麻は呆れたように私の顔を見る。

「そうでもない。ただちょうどうまい具合に電車が来たのだ」

本当はかなり急いだのだが、当麻の言い草が面白くなく、わたしはそんな風にうそぶいた。

「悪かったな、こんな時間から」

ほどなくビールが運ばれて来た。
店員は当麻の前にグラスをひとつ置いたあと、私の前に紙でできたコースターを置き、その上にグラスを音もなく乗せた。

「かまわん。残業した後に飲みに出れば、いつもこんな時間だ」

「まぁ、そうだな」

当麻がグラスに口をつける。
よくよく顔を見れば、薄暗がりの中でもかなり赤くなっているのがわかる。

「何杯目だ」

「んー。三杯目?かな?」

「しかもビールとは珍しい。いつもの甘ったるいものは飲まないのか」

あまり酒に強くはない当麻は、普段からカクテルだとかサワーだとかを一、二杯しか飲まないのだ。

「甘い気分じゃないんだよ。苦いの、飲みたいの」

「悪いが、何と言って慰めていいのか、私にはわからんぞ」

私がそう言うと、当麻は少し驚いた顔をした。

「俺、慰めてほしそうに見えるか?」

「違うのか」

改めて正面に座る当麻を眺める。
飄々とした雰囲気が、更にサラリと乾いたような。
掴みどころのなさが、いっそう増したような。
一見平気そうな素振りをしてはいるが、堪えているのだろうか。
それとも、存外平気なのだろうか。

「どうかな。心配してくれているわけだ。征士君は」

「まぁな。伝えてみてはどうだと、言ってしまった覚えもある」

新宿のとある屋上ビアガーデンで待ち合わせた夏。
当麻と二人きりで会うのは、あれ以来かと思い出す。
時折話題に上る当麻の想い人に、そんなに好きなら好きだと言ったらどうなのだと軽くけしかけた。
相手も同性と恋愛ができる人間なのかどうかわからぬままに告白をしたところで、叶う見込みなど薄いだろうことをわかりながら。
だからさっきの電話のあの当麻の一言で、事の次第が瞬時にわかったのだ。
もちろん、当麻だってそんなことは先刻承知で、私ごときにそんなことを言われたからと言って、真に受けたわけではないだろうが。

「別に、征士に言われたからってわけじゃないんだぞ?」

ドキン、とした。
私が思っていたことと同じことを、当麻が口にしたから。
当麻はテーブルの上で両手でグラスを包み込むように握り、黄金の液体を揺らしながらじっと見つめる。

「伝えないで終わるのは、嫌なんだ」

無数の小さな泡が、当麻の目の前でつぶつぶと浮かんでは消えていく。

「で? 何と返されたのだ」

私は早々にビールを飲み干し、ウィスキーのダブルを注文する。

「それを聞くのか?容赦ないなぁ」

当麻は顔をグラスに向けたまま、目だけを私の方へ上目遣いに見た。
その目は笑っているようにも見えるし、少し泣いているようにも見えた。

「……郷里に彼女が待っているんだそうだ。で、春に帰るんだと」

「そうか」

「彼女がいるなんて、今まで一言も聞いてなかったんだけどなぁ」

そう言って当麻はグラスを煽り、すっかり空にした。

「そうか」

「知ってたみたいだ。おれが好きだって言っても、驚かなかったから」

「…………」

残念だったな、とかなんとか、一言返そうと思うが、うまく言葉が見つからない。

「またそのうち、いい奴が現れるだろう」

「そうだな」

そのいい奴が、当麻とことを好いてくれたら。
当麻の想いが報われたなら。
それは私にとって、喜ばしいことなのか、どうか。

「遼なんて、どうだ」

「遼〜?? なんで遼なんだよ」

まったくの冗談に受け止めた顔て、当麻が笑う。
それから薄暗い店の、低い天井を仰いだ。

「あーあ。さっぱりしちまったなぁ」

サバサバとそう言って、肴のイカの脚を一本、口に放り込む。
私は相槌をうつ代わりに、手にしたグラスの中の氷をカラカラと回した。

「そんな顔するなよ、征士」

言われて私はハッとする。

「そんなとは、どんなだ」

「まったく。……振られたのは俺なんだぜ?」

落ち込んだような顔でも、できていたのだろうか。
親友の失恋は残念なことに決まっている。

「お前の良さがわからんとは、もったいないことをするものだな」

私なら。

「んだよ、それ。とってつけたみたいに」

イカの足を噛みながら、また当麻は笑った。



「ありがとうな、征士」

駅の改札前で、当麻が今日何度目かの礼を言う。

「ああ。年内にまた、皆に声をかけてみるか」

「そうだな」

きっとそのうち、当麻は次の新しい想いを見つけるだろう。
その想いの先が、自分ならいい。

右の鎖骨から流れ出た川はどうやら、とある目的地に向かって流れているらしい。
そんなことを考えている自分に驚きながら、手を振って雑踏へと消えていく当麻を見送った。




おわり
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